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ISISの登場から宗教について考える

この浪人生活の期間に、余裕のある時間の中で何度か、宗教について深く考えることがあった。それは同時に、自分について深く考えることにもつながっただろう。

その間にも世界では宗教の揺り籠といわれた中東を中心にさまざまな事件が起こる。そのたびに、新たな接点から再び深く考えることになった。

シリアとイラクに突如出現したISISから、この地のことをよく考えてみた。ISISは人類が初めて呪術の世界から、全と悪との対立を原点とする宗教世界を作り出したゾロアスター教の信徒の末裔ともいうべきヤシディの人々を追い、また旧フセイン体制で政権中枢にまで信徒がいたアッシリアの人々を追放し殺害している。シリアといえばパウロだ。当初はキリストを弾圧していた彼が突然改心するのはなぜか?12使徒でもなく、キリストから教えを受けるどころか、会ったこともないはずのパウロとその考えがなぜ今日、キリスト教はパウロ教だと批判されるほどその宗教哲学の中核となったのか?アレッポやダマスカスという地名がでるたびに、そのことを思い出す。

ダビンチコードの影響か、あるいは西欧社会の初期キリスト教検証があの本を生み出したのか、その因果関係は知らないが、最近、めざましい宗教考古学の研究というか、そのもととなる死海文書、ナグハマディ文書、グノーシスやクムラン教団遺跡などの考古学的解明から、初期キリスト教というものがどういうものであったか、次第に明確になってきたと思う。

この年になって、初めて知ったのは、西欧社会においてキリストとブッダとの類似性について以前からそして考古学的発見から深く広い研究が盛んに行われてきたことだ。伝説研究のケンベル教授の「千の顔をもつ英雄」で、彼がキリストの体験をブッダのそれとをまるで同じもののように表現しているのに驚嘆したが、最近、仏教あるいはヒンドウ哲学が遠くエジプトのアレキサンドリアに伝わり、拠点も存在したことがいわれるようになった。

浅学非才の表面的な読書ではそのへんが限界だろうが、ヨハネやキリストが所属したとされるエッセネ派教団の存在はこれまでとはまったく異なる宗教観の糸口になると思う。

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